慶長元年(一五九六年)谷内浜において営まれたのが、能登塩田のはじまりです。それを加賀三代藩主前田利常公が、農民救済のために、塩手米の制度をひいて能登一帯にわたって奨励しました。
塩平米の制度とは、田畑の少ない農民に対し米を貸しつけ、そのかわり塩を納めさせるもので、玄米一石につき塩九俵(四石五斗)の割合でした。
以来三百六十年、この世界最古の原始製塩法が、当地の重要産業として営々とつづけられています。
製塩工程には、海水を天日や風を利用して濃縮する工程(「採鹹(さいかん)工程」)と濃縮された海水を煮つめて塩をつくる工程(「煎熬工程」)の2つがある。
このうち、塩田では、「採鹹工程」になる。
*塩田とは、塩を作るための土地で、岩盤の上に粘土を敷き固め、その上に砂をかぶせてあるもの。

製塩技術は、基本的に下記のように進化している。
「あげ浜式製塩法」とは、平安時代の終わりから江戸時代にかけて行われた製塩方法。
当時土木技術が未発達だったため、塩田は海岸より高いところにしか作れなかった。手法としては、塩田の表面に粘土を敷きつめ、その上に砂を撒く。そして海岸で桶に海水を汲んで、塩田まで運び散布し、蒸発を促進させるために再び砂を攪拌(かくはん)してやる。  散布・攪拌を繰り返し、風と太陽の力で砂を乾燥させる。充分塩分が付着した砂を沼井(ぬい)に集め、海水をかけて砂の表面の塩分を洗い落してやると、濃い海水ができあがる。この濃い海水を鉄釜や石釜に入れ、煮詰めて塩を結晶させるという手法である。
石川県珠洲市に日本で唯一残された揚げ浜式製塩法で使用される塩浜。約500年前とほとんど同じ方法で作られている。
揚げ浜塩田は、一艘、二艘と数えられ、一艘の塩田面積は約60坪(200㎡)である。
石川県珠洲市に製塩が奨励されたのは三代藩主前日利常公の時代。前田は塩田の設置を進め能登の国に水を前貸しして塩を作らせ、水のかわりに塩を返納させるやり方をとった。それから塩の専売に移っていったと見られている。
いわゆる「塩手米制度」がこれで、玄米一石につき塩九俵(一俵は五斗)の割で返納させたものである。
加賀藩が珠洲の塩に力を入れ、盛んになった要因として、以下がある。

1.燃料が手にいれやすかった事
2.内浦の海岸は、砂浜が多く、塩田をつくりやすかった事
3.外浦の海岸は、磯浜で塩田を作るのには苦労が多かったが、日照時間が長い利点があった事
4.大きな川がなく、海水の塩分が濃い事
5.水田が少ないので米の生産が十分ではないが、米にかわる他の生産がない事

*「能登の揚浜式製塩技術」は、平成20年3月13日 国の重要無形民俗文化財に指定される。
塩田の砂の表面で水分は蒸発し、小さな塩の結晶になっている。これを集めて上から水分をかけて表面の塩を一旦溶かし下部から濃くなった塩水を集める。かける水分はその前の回に作った鹹水を使い、何回か鹹水(かんすい)をかけると表面の塩分は流れてしまうのでその回は終わりになる。表面を洗い流した砂は再び塩田の表面に戻す。

砂を集め、塩分を流し出す箱を「沼井(ぬい)/たれ舟」と呼ぶ。
形は四角形で厚さ3cm位の板で深さ60〜90cm、一辺の長さ2m近い箱型。
高さ60cm位の足を四隅につけ両側面に二本ずつ合計4本の把手をはめこみ移動に便利なようになっている。
1.バイ(盤付(ばんつき)) 重量のある厚板に人間の高さくらいの欅(かやき)の丸棒をつけたもので、地固めをするとき使うもの。
2.じようご(りようご) 板で作った背負子(せおいご)である。砂を背負って運ぶ道具。
3.しこけ しごおけともよび引桶どもいう。塩田内に据えて、汲みあげた海水をこれに溜めるのに用いる。
4.いぶり 大形のものを浜とりいぶりと言う。板と柄の角度はやや鋭角にし、板の下部は一体に薄くして砂を集めるのに都合よくなっている。
5.かえ桶 荒潮桶(あらしおおけ)、担桶(かよいおけ)、(かえ桶)ともいわれる物で、これを肩荷捧(かたにぼう)で両方にかついで海水を持ち運ぶ。
6.肩荷棒(かたにぼう) 担棒(にないぼう)ともいい、かえ桶を肩に荷なうために用いる。
7.おちょけ 酒か醤油の瓶を逆にしたような形(円錐形)。しこけの中に溜められた海水を塩田に撒布する時に用いる。
8.こまざらい 塩田を縦横に掻いて砂を掻き起したり、砂を平均してならすのに用いる。
9.しっぱつ いぶりで掻き集めた砂をたれ舟に詰めるとき、砂をすくうために用いる。また、たれ舟の砂を塩田にはね出す時にも用いスコップの役目をするものである。
10.たれ舟 沼井(ぬい)とも言う。形は四角形であり、足を四隅につけ両側面に把手をはめこみ、移動に便利なようにする。
11.はな桶 かえ桶と形も作り方も同じだが、かなり小形で。たれ舟で濾過(ろか)された塩汁を汲み出すのに用いられる。
12.釜屋道具 釜屋道具には、釜・釜火箸・み汲み杓・かつすり・かんすいだめ・こずっぱ(ため桶)・濾し桶・さっくり・あわかき・ゴミ掻き・塩かき・灰かき・メートル等がある。
13.浜仕用具 浜仕用具には、浜衣・肩あて・お汁桶・木のみ桶・めんぱ・菜入れ、そして砂を運ぶための砂取船がある。
*「能登の揚浜式製塩用具(166点)」は、昭和44年4月12日 国の有形重要有形民俗文化財に指定される。
□潮汲み場(海水汲み)から荒潮桶に海水を入れて塩田へ運ぶ。


□引桶(ひこけ)に入れた海水を打桶(うちょけ)で海水を霧状に撒く。


□鹹砂(かんしゃ)寄せ。鹹砂を沼井(たれ舟)中心に柄振(えぶり)を使って蒐集する。


□端間桶(はざまおけ)へ鹹砂を入れ、端間桶にいれた鹹砂の上から前日の藻垂れ(もだれ)をかける。
 一定以下の濃度の鹹水はとっておき、翌日鹹砂にかける水に使う。
 ※現在では塩分濃度は比重計で簡単にわかるのですが、昔は舌で確かめたと言われる。


□海水は砂についた塩の結晶を溶かしながら下へ流れていき、箱の底には「すのこ」と「むしろ」が
 敷いてあるので濃い塩水だけが出てくる。藻垂れを注いだ後、海水を掛ける。


□鹹水を釜屋へ運び焚き、煮詰め、塩釜で煮て水分が蒸発して煮詰まった塩を取り上げる。



浜仕の一日 浜仕は午前2時半ごろに起きて、塩浜に出るとこから始まる。まだ暗い海から海水を汲み塩田に運び、塩田の砂上に海水を撒き十分に砂へしみこませる。そして、コマザラエで溝付けし、終わった頃に明け方になる。

一旦家に帰って朝食を取り、薪(たきぎ)取りに山へでかけ、釜屋へ運ぶ。薪の担ぎ出しが終わるころには塩田の砂は白く乾いている。そこで再度海水撒きが行われ、その後昼食。

午後より浜寄せ(塩を集める作業)をする。真夏の炎天下で行われる。
濃縮された塩水が溜まってきたら、釜に入れて「荒焚き」をする。4時間ほど焚き、のち温度をさまし、濾し桶に入れて濾過する。再び塩水を釜へ入れて塩焚きが始まり、9時間程焚くと白い塩が出来上がる。
塩の専売を幕末まで一貫して行ったのは、仙台の伊達家と金沢の前田家の2つの藩だった。

寛永4年(1627)加賀藩では塩手米(しおてまい)制度が置かれた。
明暦3年(1657)連年の凶作により、塩概の基準もできなく、一俵につき8分の運上銀の上納で、その他の塩は自由に販売された。他国領への積み出しは一時廃止の時代もあったが、当時は禁止された。
寛文元年(1662)の豊作により、翌寛文2年(1662)には復活強化された。その後改作法により、体制の充実再編整備され、明治4年(1871)の廃藩置県まで、幕政の保護などにより長く続いた。

大正8年、塩は国家存続上欠かすことができないものという認識が深まり、明治37年に塩専売法が国会で可決され、公益専売へと改められた。
昭和20年自給製塩と改められた。

昭和24年に日本専売公社が発足、翌25年国民必需の公益専売となる。
1997年に塩専売法が廃止され、塩の生産は「財団法人塩事業センター」に引き継がれた。

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